高校生の夏休みから、野球部に入れてもらった。
野球部と言っても、マネージャーとして入ったつもりだったが、部員が少ないので野球をやる羽目になってしまった。
出来ませんと言うこともできない、意志薄弱であった。
そして秋から冬のトレーニングで、右足の脛骨が「骨膜炎」を起こし、2か月ほど
リタイヤした。
激しい運動に耐えられなかったのである。
今思えば、虚弱体質そのものである。
足の痛みも癒えてトレーニングを開始した。
私の故郷は信州の佐久です。
新潟県に近い北信の豪雪地帯程は雪が降らないが、それでも昭和40年代は、まだまだ今よりは冬場を通して30センチぐらいはよく降りました。
冬場のトレーニングはグランドで古タイヤをロープでくくり、そのロープを腰に巻いて引っ張って歩き、腰を鍛えたり、体育館で左右に投げられるボールを走りながら捕球するトレーニングをやりました。体力の無い私にはかなりきついトレーニングでしたが、17歳は最大の成長期です。
さすが体力の無かった私でも、どうにか落ちこぼれることなく付いて行くことが出来ました。
1年生の体育の時間5キロマラソンをやると、その日は寝るまで心臓の鼓動が治まらず辛い思いをしました。
友達も同じだと思い聞いてみると、誰もそんなことはないという。
俺の体はやはりおかしいと気が付いた。
すごいショックであったことを覚えている。
ところが野球部に入り練習を重ねる内、5キロ走ってもその様なことはなくなりました。そればかりか5キロを30分かかって走っていたのに、25分そして20分、最高は18分までタイムを上げることが出来ました。
3月の中旬頃からはグランドでの練習が可能になります。
私の守備は外野です。
しかし、4月中旬頃まではノックを受けてもボールの落下点がつかめず、大きな飛球を捕球することが出来ませんでした。
しかし、5月に入ると不思議にも大きな飛球も捕球することが出来るようになりました。ボールの落下点が感で分かるようになってきたのです。野球が楽しくなってきました。
バッティングも中々難しいものです。軟式と違って硬球はバットの芯で捕らえないとボールが飛ばないのです。タイミングが大切ですが、調子の起伏が多くて3年生最後の試合まで満足できる結果を出すことは出来ませんでした。
高校卒業後公務員になり軟式野球を始めてから満足の行くバッティングが出来ましたが、好不調は付いて回りました。
後年この世界に入って始めて起伏の多いバッティングの原因が分かりました。
原因は骨盤の歪みだったのです。好調のときは腰が安定しているのですが、不調の時は腰が歪んでいるために、ボールにバットを当てようとしても「ブレ」が生じて、バットの芯で捕らえることが出来ないのです。
思い起こせば幼い時から骨盤がゆがんだときに出る諸症状がありました。
「便秘や下痢が多い、胃腸が弱い、風邪を引きやすい、寝小便、集中力が無い、体力が無い、寝つきが悪い、早起きが出来ない、偏食、甘いもが大好き、疲れやすい」これらは骨盤がゆがんでいる子供に出る症状です。
中学生になったころから、慢性盲腸、つまずき易い、足首の捻挫を頻繁にやりました。
公務員になってからは対抗野球が年に何回かあり、日頃から練習をしていました。その内「早起き野球」なるものが出来て、早朝5時半から7時まで野球をやることが多くなりました。
私は高校で野球を少しやっていたこともあり、重宝がられて投手をやることも多くなりました。
野球は大好きだったので率先して練習もして頑張りました。年々チーム数も増えて、試合数が多くなり出番も増えましたが、此れといった楽しみも無い田舎ですから楽しくて楽しくてしかたありませんでした。
21歳の春、まだ寒い早朝からの試合が続き、腰から背中にかけて異常に筋肉が張るようになってきました。一晩寝れば最初の内は翌日には気にならなくなっていましたが、次第に緊張が慢性化してきて、グランドでも、チームの攻撃の間同僚に揉んでもらう事が増えました。
そして春のリーグ戦が一月程過ぎたある朝、起きようとしたときに鋭い痛みが腰に走り、動くことすら出来ない状態になりました。
生まれて初めての経験です。
何が起きたのか想像すら出来ません。必死で家族を呼ぶと父に「これはギックリ腰だ」言われ、医者に行くしかないなと言われましたが、その日は動くことすら出来ません。
トイレにも這って行き、必死の形相で用を足し、後は安静にして二日程で少し動けるようになったので「整形外科」を受診しました。
医師はレントゲンを撮り「腰椎がかなり曲がっている。痛み止めを服用して湿布を貼って安静にして下さい。」と言うだけで診療は終わりました。
生まれて此の方、病気は医師が治してくれるものと思い込んでいましたから、これで楽になり、また元気に野球が出来ると安堵しました。
しかし、この日を境に「慢性腰痛、背中痛、寝違い、そして内臓疾患など」以後18年間苦しむとは予想だに出来なかったのです。
髙橋健康指導センター 高橋純一